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日本とトルコの絆

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エルトゥールル号追悼歌

エルトゥールル号

1890年9月16日、オスマン帝国の明治天皇に対する初の親善訪日使節団を乗せ、帰国の途についた軍艦エルトゥールル号が紀伊半島の沖合で台風の影響で座礁、ボイラーの爆発で650名が海に投げ出されるという事件がありました。和歌山県串本町大島という貧しい漁村の海洋監視の方が現場を発見、10メートルの落差のある岩壁を大きい外国人を背負って助けた、力を尽くしての救助活動が展開されました。暖房機器など完備されていない時代に人肌での必死の救護にもかかわらず、残念ながら587名が亡くなりました。その中、69名の方を救う事ができ、また尊い命を失った方の遺品を一つでも多くトルコに送ろうと、民衆が最大限の努力を注いだその事は、トルコでは教科書にまで掲載されているのですが、対照的に日本ではその史実が教科書に掲載された事がありません。

第一次世界大戦
​ ~平明丸事件

1914年から始まった第一次世界大戦でオスマン帝国はロシアと戦火を交え、多くの捕虜がロシアに抑留されていました。ロシア革命後に一部は開放されましたが、日本軍のシベリア出兵により1918年にトルコ軍捕虜の存在が確認されました。日本国がオスマン帝国と連絡を取り、紆余曲折はありましたが1921年2月にウラジオストクから、貨物船であった平明丸にて、女性も含めた1000余名を乗せ出発。7年間の長い劣悪な環境下での抑留生活のあとに、祖国に帰れるという喜びもつかの間、途中エーゲ海にてギリシャ軍艦に行く手を遮られました。ギリシャは執拗にトルコ兵の引き渡しを要求する中、日本のサムライ魂は素晴らしく、日本軍の津村諭吉中佐はオスマン帝国本国に渡すまでどこにも渡さないとキッパリと断りました。(続きは『シベリア-日本海-エーゲ海を渡って 捕虜生活から自由へ』ヒュセイン・トゥンチャイ著へ)

日本人救出

1985年イランイラク戦争時、イラクのフセイン大統領が48時間以後にテヘラン上空から無差別攻撃をすると声明を出した際、日本政府は救出隊の安全が図れないという理由で救済フライト計画を躊躇しました。自衛隊機も国会の承認がとれていないという理由で、日本からは救助機を出しませんでした。その際に、トルコ国がテヘラン空港に残された500名ほどのトルコ人を救助するために自国の飛行機を送りましたが、若いトルコ国大使が「今あそこにいる日本人を助けられるのは私たちトルコ人だけです」と言って、日本人を優先的に飛行機に乗せてくれました。乗れなかったトルコ人は車や徒歩で陸路でトルコに向かいました。その際トルコ空軍の操縦士達は「我々の先祖は日本人に助けられたという恩がある」と、自らが操縦桿を握りたいと自発的に挙手しました。

そんな日本国との親交の歴史の深いトルコは昨今(2023年2月6日)の大地震で大きく傷ついております。

今回、当一般社団法人の立ち上げへと至った今、さらにトルコ国との絆や相互支援、文化交流や観光推進、及び支援金募金活動なども視野に、理事をはじめ社員やメンバーとして活動されて下さる方々をコアに日本とトルコ、さらに関係各国間の文化や経済活動の発展に寄与できるべく、活動を幅広く推進、展開してまいります。

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